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ドイツ「倫理員会」報告書-4.4 倫理委員会の共通判断 [原発問題・ドイツ倫理委員会]

ドイツ「倫理員会」報告書-4.3 基本的対立点:絶対的拒否(Categorical rejection)対 相対評価 (Relativising assessment)に関して正式に説明つき記事を書く準備をしていたのですが、あれこれ時間がなく、コメントにつけたもので説明代わりにさせていただきます。「4.4 倫理委員会の共通判断」は短いのでなんとか書いてみます。
また、この先ですが、再生可能エネルギーの部分になってきますので、大幅に割愛し、

5.共同プロジェクト「ドイツにおけるエネルギーの将来」の基本原則
6. エネルギー転換推進の体制
7. エネルギー転換への提言
8. 更にいくつかの基本条件
9. 知見に基づく意思決定のための研究体制
10. 核拡散問題
11. 核廃棄物の最終処理
12. “Made in Germany”の国際的広がり

のうちいくつか部分的には取り上げる予定にしております。
報告書の原文はこちらです。
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/EthicsCommission_full_translation.pdf

4.4 倫理委員会の共通判断
 この諮問において、倫理委員会はリスクをどう基本的に理解するかを特に重視した。 委員会は上記二つの立場(絶対的拒否 対 相対評価)の対立点を原理的に解決したと主張するものではない。どちらの立場についても良い、そして真剣な論証が存在する。倫理委員会でも両方の観点を代表する主張が強く展開された。しかしながら、議論のなかでこの(二つの観点の)収斂が見られた。
 絶対的立場からは、「原子力発電に関する正当な決定をするには、これは単に、エネルギー源の選択肢それぞれからくる損害の程度と確率を単純に数量化したり、相殺したりすることだけでできるような問題ではない。」ということを学ぶことができる。特に、利用可能なエネルギー源の選択肢についていわゆる期待価値(損害の程度✕損害確率)の方に注目するべしというひとつの合理的アプローチがあるが、これの必要性はないということである。
 リスク計算の技術的方式に従えば、巨大損害には低い発生確率を掛けることができ、従い、高い発生確率を持ついくつかのより小さい事故と相対化して比較できることになる。これに基づいて、巨大損害はより重大であると評価することは不合理とはいえない。
 これは弁証法的なアウフヘーベンとでもいうべきことなのでしょうかね。対立しながらも、二つの観点の収斂がなされた。
アウフヘーベンは全く違う立場の一地点でしたか?このへんは素人につき間違っているかもしれませんが、脱原発でも脱あるいは反被ばくでなければ、いっしょに運動しない。日本ではよくあるケースで、とりわけがれき受入れ問題では、あちこちで分派活動ができて大変だったようですが。
 赤い字の部分が、福井地裁樋口裁判長らのとる立場だったと見ることができそうです。起こりうる巨大損害は当然評価の対象になると。
 こうして、相対的立場から引き出せるできる結論は、一方において、ドイツ社会は原子力エネルギーの利用を止めた場合どうなるか、その結果を考慮に入れておく責任を有するということである。国際的義務という問題や他の国における異なるリスクの考え方をも考慮に入れていかなければならない。加えて、損害の程度と確率から評価結果を求めるという方式(原文注1)に準拠しないでもリスク評価に当たり、発生確率を考慮することは合理的であるといえる。
 赤い字の部分は注釈がありまして、計算式があると。
原文注1:「方式」とは最初の二つの変数(損害の程度と発生確率)を乗ずることによって得られる数 学上の結果であると理解されている。
 損害の程度×発生確率 そんな簡単な数式ではないのでしょうが、ここらの考え方は、すぱっとはいかない複雑なものを感じますね。
 その結果、実際面においては、両方の立場は原子力エネルギーに関する限り同じ結論に到達する。つまり、環境、経済、社会上の問題と両立させながら、現在の原子力発電所の発電能力を原子力よりリスクの少ないエネルギー源に代替ができ次第、できるだけ早く原子力発電所の使用を停止するべきという結論である。
 これにより原子力エネルギーの賛成派と反対派の間の理解の橋渡しが出来ることになる。
倫理委員会としての判断について合意に達するためには、原理的に原子力エネルギーに反対しなければならないということにはならない。ドイツは環境問題上も経済的にも社会的にも対応できるよりリスクの低いテクノロジーで原子力エネルギーを代替できる機会を有しているという倫理員会の全会一致の見解を共有するだけで充分である。
 即ゼロではなく、よりリスクの少ないエネルギー源に代替ができるまでの猶予期間を置きつつ、確実に将来ゼロにするということですが、日本の民主党時代は、一応区切りをつけたから、このドイツのケースに近かったわけです。それをアベのやつがひっくり返す。選挙公約にあったかどうかも忘れたが、結局民主党の政権担当能力のなさだけを批判し、あれだけ衆議院選挙で脱原発政党が乱立したら共倒れになってしまう。
 やり方も下手だったわけですが、結局アメリカの半植民地で、基地と原発はそうそう簡単にはなくさせないよと言う、構造的なものから脱却しない限り、ドイツのようにはいかないし、政権にいいように操られる国民性では、ほんとに難しい。
 あの細川さんが立った東京都知事選挙が最大のチャンスだったのだが、飯島の野郎にいいようにやられてしまって、芽を摘まれてしまった。
 以下、前の時にコメントに引用しましたが、非常に参考になる御意見があります。

「ドイツ倫理委員会勧告」翻訳グループ 発表者:峰内氏による説明
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/mineuchi_genpatsu_2011_12.pdf
-g)(「絶対的決定」が必要)しかし、両方の観点に基づき平等に検討したといいながら、この勧告書全体では「絶対的拒否(Categorical rejection )」の立場が鮮明であると受け取れる。「福島で証明されたように、これらの予め設定された限界の外にある大惨事の結果やその経過を『残余リスク』(“residual risk”)として片付けてしまうことは倫理的に受け入れられないことを意味する。」つまり、「原子力発電に関する正当な決定をするには、単に、エネルギー源の選択肢それぞれからくる損害の程度と確率を単純に数量化したり、相殺したりすることだけで出来るような問題ではない。」そして「原子力事故のリスクは現実の事故の経験から帰納できない。何故なら、最悪のシナリオの場合の原子力事故の結果とはどういうものなのか不可知である。」として「相対化評価(Relativising assessment)」そのものを原子力問題については否定してしまっているように見受られるからである。
 「何が評価可能かの限界を超えている場合は、倫理的な責任という観点から、絶対的決定がなされなければならない。相対的、評価可能リスクと並んで、絶対に評価不可能なリスクが存在する。」と結論づけているところがこの委員会の倫理的立場を明確に示しているように思える。
 裁判官は神ではありませんから、絶対的な判決と言うのはないわけです。原告被告の双方の主張立証の中で、より確からしいもの(蓋然性)があると確信できたときに判決を下します。やっぱり「絶対的」というのは誤訳で、実はこれは限りなく絶対に近い相対的なものと見るべきか?それも変な訳になるから、やはり「定言的」判断とするべきだとは思います。
 100パーセントの立証なんて不可能だし、裁判官もやはり揺れている。8割確信すれば、どちらかに軍パイを上げざるを得ない。行司と違って写真判定、ビデオ判定なんてないですから、脳の中の割合なんて表示できない。おっとおかしな方向にいきつつありますが、次の本の中に答えがあったような気がします。
ドイツ脱原発倫理委員会報告: 社会共同によるエネルギーシフトの道すじ
ミランダ・シュラーズ氏の解説部分です。
ドイツ倫理委員会.png
47,48ページの部分で、やはり「絶対的拒否の立場」と訳されていますね。他のページも重要なところがあるのですが、書店等で前後を立ち読みしていただければいいかと思います。
 まず右のページで「一連の事象を『残余のリスク』として片付けることは、倫理的に受け入れることはできません。」左のページの「原子力施設の場合には、このような一歩一歩学ぶという可能性が除外されています。」ここらのニュアンスから、日本語の「絶対的」な場合は、「何が何でもダメ」「駄目なものは駄目」というイメージがありますが、かなり客観視した理性的な判断を感じます。
 こだわっても仕方がないことかもしれませんが、カントの定言命法を持ち出すと長くなりますので、しませんが、日本人にまねのできない落とし所に落ち着いた感はありますが、とにかく決断が早かった。その点は最大限に評価すべきことだったと思います。
 民主党時代、あの野田のブタが大飯を再稼働してしまいましたが、あのとき猿芝居をしたのが橋の下です。最初から再稼働容認だったはずが、反対ムードが強かったらので、関西広域連合で喧々諤々の議論をするふりをして、結局ゴーサインをだした。こんなやつを日本の総理にしてはいけません。
アベよりたちが悪い。

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ドイツ「倫理員会」報告書-4.3 基本的対立点:絶対的拒否(Categorical rejection)対 相対評価 (Relativising assessment)手抜きでそのまんまアップ [原発問題・ドイツ倫理委員会]

今回は、ドイツ「倫理員会」報告書の「4.3 基本的対立点:絶対的拒否(Categorical rejection(訳注1))対 相対評価 (Relativising assessment)」です。
なお、倫理委員会報告書は、こちらの全訳を使わせていただいてます。
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/EthicsCommission_full_translation.pdf
解説を試みたかったのですが、あれこれで時間もなく、読んでみるとなかなか大事なことを書いてますので、先に原文を読んでいただくことにいたしましょう。

4.3 基本的対立点:絶対的拒否(Categorical rejection(訳注1))対 相対評価 (Relativising assessment)

 原子力エネルギーをめぐる意見の対立の中心には、大事故の原理的可能性(現在と将来
における放射能廃棄物からくる損害を含む)に如何に対処するかについての、互いに一致
点を見出し難い見解が存在する。
ここに、絶対的拒絶の立場と相対比較評価の立場という二つの立場(訳注2)が対峙している。
この二つの立場のリスク評価は純粋に健康と環境リスクだけではない。リスクには広範
囲の文化的、社会的、そして心理的結果についてのリスクを含むのである。
倫理的判断のひとつの主題は社会の精神的環境が毒されることからくる問題でなければな
らない。精神的環境の問題は、ドイツでは、原子力エネルギーに関する議論においては看
過できない問題である。
 同じように、リスクと安全についての包括概念にはエネルギー供給の確実性、経済的安定
性、そして環境保護という次元を含むものである。加えて、環境、経済、社会、技術それ
ぞれに関するリスクは密接に相互連関している。
一面のみ切り離して見てしまうと、問題全体を見失ってしまう。
倫理的立場について議論する場合、選択肢があることが前提である。何かについて「こ
れしかない」ということは最早、人々には受け入れられない。これは原子力エネルギーの
利用についてもいえることである。
「他に方法はないのだ」(“lack of alternatives”)という主張は開かれた議会民主主義に対
する信認を突き崩すものである。ますます、選択肢の存在が決定を行うための自由度を創
りだすというようになってきている。また、選択肢の幅が広くあるほど、エネルギー供給
の構造がより分散的に、より多様化できる。選択肢が多様であることが、市民が意思決定
のプロセスに参加し、また例えば、協同組合活動などの活動に関与出来る機会を増やして
くれ、市民自身の責任をみずから組織化することを可能にしてくれる。また、これが市民
社会を強化することにもなる。

絶対的判断(Categorical judgement)

 福島における惨事は安全、リスクそして危険というような概念が一体何を意味するもの
か、見直しと再定義が必要であることをはっきりと示している。
起こる確率を尺度としてリスクの大きさを計るというリスクの技術的定義方法は原子力
エネルギーの評価には不向きであり、受け入れ難いことに、リスクを相対化してしまうと
いう結果に系統的に行きついてしまう。
 因みに、確率というものはある出来事の経過と設計限界の枠組に基づく仮定のなかでし
か合理的に計算できない。福島で証明されたように、原子力エネルギーの場合、破滅的事
故の可能性が特に高いということが意味することは、これらの予め設定された限界の外に
ある大惨事の結果やその経過を「残存リスク」(“residual risk”)として片付けてしまうよ
うなことは倫理的に受け入れられないということである。福島の原子力惨事は日本のよう
なハイテクで高度に組織化された国においてでさえ、実際の非常事態において取られた措
置と人間の予防策には限界があるということを証明している。自然環境、食料生産、地域
内の人々、世界経済にどういう結果をもたらすのか、全ての因果関係を考え、そのリスク
の限度を設定しようとしても、それは不可能か非常に難しい。

訳注 1:”Categorical”はカントの”Categorical Imperative”(定言命法)が念頭にあると思われるので「定言的」と訳すことも出来ると思うが、対比されている“Relativising Assessment”(「相対化評価」)との関連で「絶対的」と訳した。
訳注2:倫理学の二つの流れ、義務論と功利主義を指しているように思う。


 原子力エネルギーを無条件に絶対拒否する立場は破滅的事故の可能性、将来世代への負
担、放射能(の影響)の可能性を重視する。この放射能(の影響)は我々が遺伝として受
け継いできたものに計り知れないほどのダメージを与える可能性があるので、リスクのト
レードオフといった考えは許容することはできないと考える。
このような観点から原子力事故による損害は利害の均衡を計ることで評価できるような事
柄の領域外にある。
予め計算することも、推測することもできないことが実際に起こるのだということが問題
なのである。
 これには方法論的な理由がある。例えば、道路や建物の安全性のように限度があるリス
クに対処する通常の方策においては、損害が実際に起こると、今後の為に、これから教訓
を学び、予防策を作るということになる。しかし、このような学習プロセスは原子力施設
に関する限り論外である。
 究極の重大事態がどんなものか分からないといって、これをリスク分析の要素から外し
てしまうと、これまでの安全概念は検証に耐えうる合理性を失うことになる。原子力事故
のリスクは現実の事故の経験から推論できない、何故なら、最悪のシナリオの場合の原子
力事故の結果とはどういうものなのか未知であり、最早これを推し量ることもできないか
らである。そして、何が起こるかは、地理的にも、時間的にも、社会的にも限定ができな
い。従い、原子力技術は最早、損害の可能性を排除する目的では使うべきではないとの結
論に達する。

 絶対評価においても、評価可能な変動要素は注意深く、比較考量されうる。しかし、何
が評価可能かの限界を超えている場合は、倫理的な責任という観点から、絶対的決定がな
されなければならない。相対的、評価可能リスク(それぞれの機会とリスク)と並んで、絶対
に評価不可能なリスクが存在する。
 もし、起こりそうもないと誰もが考えているような出来事が実際に起こったら、誰も望ま
ないことが起こったのであり、また、誰も他の人に何もいう資格がないということになる。
このようなことが起こらないようにすることが予防策の核心である。

相対的リスク評価

 リスク評価は次の様な推論から出発する-つまり、大規模な技術施設ではゼロリスクは
決してあり得ない、そして、石炭、バイオマス、水力、風力、太陽光 そして原子力いず
れを使用するにしても、リスクはそれぞれ異なるが、比較可能であるとする。エネルギー・
オープションの何れもリスクフリーではない。リスクが受け容れられるかどうかの判断は、
科学的事実と倫理的根拠に基づき、また合意されている評価基準をベースに、使用可能な
エネルギーの選択肢全てにわたり、予想しうる結果を比較評価することによって行う。
このことは、全てのリスクと利点が可能な限り科学的に評価されることを求めるもので
あり、これには生命体循環過程全体に直接的、間接的にどんなことが起こりうるのか予測
することも含まれる。
 結果の規模と並んで、その結果が起こる確率も考慮に入れなくてはならない。影響度の
評価に関して、リスクと利点の可能性(opportunities=favorable occasions)は相互に比
較検討されなければならない。倫理上の考察はできうる限りの最も合理的な、最も公正な
評価を行う上で役にたつ。最後には、このような評価基準の重要性の上下を決めるのは政
治的意思決定のプロセスの問題である。
 評価というものは、常に、初期条件及びその後の関連する全体状況がどうであったかに
かかっている。この点で、原子力エネルギーのリスク評価について、ある国おいて、また
は、ある時点で全体として積極的な判断に達している一方で、他の国または、他の時点で
(逆に)全体として消極的な判断に達するということになる場合があるが、これはおかし
いとはいえない。故に、原子力エネルギーのリスクと利点の可能性を評価する場合、それ
と原子力以外のエネルギー生産手段のリスクと利点を、検討時点における各エネルギー源
の状況によって、比較検討することが必要である。
仮に、この評価をドイツの現在の状況に基づいて行った場合、合理的に立証できることは、
原子力発電所は他のもっとリスクの低いエネルギー生産手段に置き換えることができるこ
と、そして、その結果として、エネルギー転換を開始するべきであるということである。
この裏付けとして、殆ど全ての科学的研究が再生可能エネルギー源を使用し、併せてエネ
ルギー使用効率の改善を行うという道をとる方が原子力エネルギー使用より健康及び環境
面のリスクが低いという結論に達しているという事実がある。
 更に、原子力の代わりのエネルギー源はいずれも現在の見方からすると、経済的リスク
という面で評価が可能であり、(リスクの)限界を明定しうるものと見られる。これは、
その程度は低いが、合意されている環境保護の目標に従う前提で、化石燃料にも云えるこ
とである。
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ドイツ「倫理員会」報告書-4.2リスク評価の概略 [原発問題・ドイツ倫理委員会]

今回は、ドイツ「倫理員会」報告書の「4.2  リスク評価の概略」です。
なお、倫理委員会報告書は、こちらの全訳を使わせていただいてます。
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/EthicsCommission_full_translation.pdf

短めですが、なかなかの名分です。

4.2 リスク評価の概略
「安全なエネルギーの供給」について検討することは社会発展に関する根本的な問題と関連している。人間が技術で出来ることは何でもしてよいということではないという基本的大原則を原子力エネルギーの評価についても考慮に入れなければならない。
特に、テクノロジーの結果が「永久負荷」(“eternal burdens”)の性格を帯びるときには、批判的評価が重要である。短期的利得の点からは都合がよくても多くの将来世代に負担が向くような決断をする場合の責任については社会全体で取り組まなければならず、そして何が受け入れられ、または受け入れられないかの問題について判断されるべきことが何かということを決めなければならない。
 "「永久負荷」(“eternal burdens”)の性格"なかなか大事ですねえ。廃棄物の処理に関しては、実質永久に負荷がかかるのですから、批判的に評価されるのは当然なのです。小泉さんが脱原発に目覚めたのも、オンカロに行って、とんでもない年数の管理がいることを実感したからです。将来世代への負担、まさにこれが受け入れられない理由です。
そのうちなんとかなるという楽観論は、放射性物質に通用しない。
可能と思われる全ての見方から説明可能なようにエネルギー供給問題を進めるには綜合的なアプローチが求められる。環境と健康がどうなるのかという問題には文化、社会、経済、個人、制度面からくる問題と同じように注意を払っていかなければならない。
リスク評価についてこれを純粋に技術の面だけに矮小化しないで、綜合的アプローチ及び網羅的評価が必要である。このアプローチには、気候変動問題の例に見られるように、余りにも多く起こってきたことだが、負担を社会一般に転嫁してはならないという基本的原則を含む。そして我々がこの問題を考えるには畏敬と謙虚の念がなくてはならない。
中心的な問題は何が想定できるのかではなく、何が想定できないかということである。
 「リスク評価についてこれを純粋に技術の面だけに矮小化しないで、綜合的アプローチ及び網羅的評価が必要である。」結局規制委員会の基準は、技術の面だけに矮小化してるのです。巨大地震や火山噴火をリスクの対象にしない。いままで、といっても精々戦後史のなかで、原発が火砕流にまきこまれたことがない、などというスパンの考え方では、「総合的なアプローチ」ではないし、「網羅的な評価」にならないのです。
原子力エネルギーのリスクと気候変動が人類と自然にもたらす影響に関しては、「世界リスク社会」(“world risk society”)という言葉がリスクが国境を越えて影響するという事実に力強く我々の注意を向けてくれる。この言葉は世界は同じ運命を共有していること、そして地球規模の政策が必要であることを示しているという点で一つの転換点を記すものである。
 「世界リスク社会」(“world risk society”)こんな感覚日本の政治家にはないのですねえ。このあたりがカントの世界市民、世界共和国の理想につながっているのでしょう。
これまで、原子力の平和利用は、特にその出現時において、多くの人々にとって管理可能なリスクのもとで、進歩、繁栄、そして殆ど無限のエネルギー供給を象徴するものだった。今考えてみると、その当時の知識からは、それは倫理的に見ても正当化できることだったが、これはとてつもない未来のユートピアだったのである。
しかし、今日ではこれは真実とは言えない、少なくともドイツにとっては。
 ここらはまさにハイデガーでしょうか。
ドイツ「倫理員会」報告書-4.倫理的な見解の序文で、國分功一郎さんのブログを紹介して「なんとか國分さんのブログも読みこなして、合間合間に入れていくといたしましょう。 」とか言ってたのですが、冬眠中は他の勉強ばかりでしたので、ほとんどやっておりません。
 代わりと言って何ですが、次のやや批判的な紹介ブログを引用します。
國分功一郎さんの講義 その2(おまけつき)
http://blog.livedoor.jp/russellian/archives/31641404.html
疑問の第二は、ハイデガーの主張の評価についてである。國分さんは、1950年代に原子力エネルギーについて批判的なスタンスをとっていたハイデガーを、原子力技術の本質的問題点を見抜いていたとし、そこから何を学べるかを考えようとする。つまり核兵器といった「悪しき利用」と、原子力エネルギーという「平和利用」に共通する本質に対する批判の矢を放っているのだと解釈している。しかし、こうした評価の仕方は、ハイデガーのやろうとしていることを誤解しているのではないだろうか。『技術への問い』であれ『放下』であれ、ハイデガーはべつに原子力関連技術そのものに立ち入って考察したいわけではないのではないか。ハイデガーの標的はもっと大きくて(だから良いとかすごいとはまったく思わない)、近代科学技術の全体ではないだろうか。原子力技術は、1950年代当時の科学技術を代表する事例として取り上げられているだけではないか。彼にとって重要な区分は、近代以前(かどうかは疑わしいと思うが)の風車と近代科学技術の間に引かれる線であり、水力発電や火力発電と原子力発電の間に引かれる線ではない。

 引用部分小さくしてみました。まあ、わからんでもないのですが、私は、國分さんが誤解しているようには見えませんでしたけどねえ。そんなにハイデガーの文章を読んでいるわけではないのですが、スパンの大小長短の違いはあっても、ハイデガーは原子力の管理不可能性を見抜いていたのではないか?倫理員会の報告の「その当時の知識からは、それは倫理的に見ても正当化できること」かもしれなかったが、ハイデガーはこれを正当化しなかったと。あまり書くとぼろがでますが、また続きのところで取り上げるかもしれません。

こちらが、最初の記事なのですが、哲学的に専門的すぎるので取り上げておりません。
國分功一郎さんの講義 その1
http://blog.livedoor.jp/russellian/archives/2013-09-03.html
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ドイツ「倫理員会」報告書-4.1 リスク及びリスク認識 [原発問題・ドイツ倫理委員会]

今回は、ドイツ「倫理員会」報告書の4.1 リスク及びリスク認識です。
PDFファイルはこちらです。
http://morikazutoshi.com/wp/wp-content/uploads/Deutch-rinriiinnkaihoukoku-mishima.pdf
若干誤字があるかと思いましたら、議員さんのところでしたね。お忙しい中ご入力ありがとうございました。

第1点は、日本の様な高度なハイテク国家においても原子炉事故が起きたことである。こうした事実を前にして、かかる大事故はドイツにおいて起こらないであろうとの確信が揺らいできたことである。こうした事は、今回のようなだ事故にも、またかかる事故をどう収拾させるかという全く無力な試みの際にも該当しよう。

津波もなく地震もほとんどないドイツですけど、これは大飯判決ブックレットに海渡弁護士が紹介してますが、裁判所が、地震対策の想定の甘さに対して、ミュルハイムケリヒ原発の許可を取り消し廃炉に追い込んでいます。詳細は大飯判決の記事で述べることにしますが、ここのブログがわかりやすいみたいですね。
東海第2原発裁判 第7回口頭弁論期日傍聴記
http://www.habataki-lo.jp/index.php?key=jorfdrxps-125
「ドイツの裁判所の判断(※)を紹介しながら、過去1000年程度の地震記録を基に作られた安全基準地震動では非常に短い期間内の想定であり、地震の強度・最大加速度にばらつきがある中で平均値を取っており想定が不適切であることが指摘されました、福島原発事故の現実に向き合う中で大飯原発差し止め判決はドイツ司法に追いついたこと、などが弁論の中で述べられました。」
「※ドイツ・ミュルハイムケリヒ原発ではほとんど地震の発生することのない地域であったが、裁判官の「未知の危険に対する鋭敏な感覚」により、同原発は廃炉と判断した。」

第2点は、事後が発生してから数週間経っても災害の終結の見通しもたてられず、その最終的な被害額の算定、或いは明確な放射線汚染地域からの避難、撤退といったこともなされなかったことである。これまでのかなり大規模な事故も、その損害度合いは充分に規定できたし、科学的な情報に裏付けられた討議・検討過程において、(核エネルギーの有利さは)他のエネルギー源の不利益さと比較しうるとの広く行き渡っていた考え方は、その説得力を大幅に失ったのである。

すでに3年以上たって、日本は再稼働、輸出です。どうにもならないですねえ。この違いは。ドイツの判断はほんとに素早かった。イタリアも国民投票でNoを示した。第二次世界大戦の敗戦国は原発を手放しているのに、唯一の被爆国である日本が手放すことができないとは情けない。地団駄踏んで情けない。

第3点は、かかる大事故が原子炉を安全な見通しを持たずして“設計”されたれたという過程を経ての大事故という事実である。かかる事態は、技術的なリスク評価の限界を明示している。フクシマにおける災害によって、これまでの判断は特定した思い込み、例えば地震安全対策や津波の最高の高さなどに関してであり、かかる思い込みが現実によって誤っている事が証明されたのである。

日本の原発メーカーはじめ原子力ムラが馬鹿にされてるんですよ。おそらくこれはいずれジワジワ効いてきて、自動車メーカーなど日本が自信を持っている産業にまで波及し、リスク評価が極めて甘い国民性としてレッテル張りをされる可能性が出てきますね。

前回は「なんとか國分さんのブログも読みこなして、合間合間に入れていくといたしましょう。」と書きましたが、今回は出番なしでした。ハイデガーの本との格闘が中断しておりまして、なかなか進みません。國分さんのブログ自体は読みやすいのですが、やはり哲学となると構えてしまいます。
代わりにといってはなんですが、報告書の本文中にカントの名前が出るので、"ドイツ倫理委員会 カント"で検索すると次の文書がヒットしました。

日本経営倫理学会 企業行動研究部会 峰内謙一氏
脱原発の倫理
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/mineuchi_genpatsu_2011_10.pdf
②「倫理的立場」(Ethical Positions)(4)に示されている倫理的観点と検討の方法
-a)(基本的対立点(4.3))基本的対立点を「絶対的拒否(Categorical rejection )対相対化評価(Relativisingassessment)」としており,カント倫理学の道徳性の判断基準である定言的命法(Categorical Imperative)と仮言的命法(Hypothetical Imperative)を想起させる。「互いに一致点を見出し難い見解が存在する。ここに、絶対的拒絶の立場と相対比較評価の立場という二つの立場が対峙している。」と云っているように、この委員会の倫理的観点はカントに倫理学に基づく義務論的検討と利害を相対比較して倫理性を検討する功利主義的検討を「相対化評価(Relativising assessment)」と呼んでこの相対立する二つの倫理学の双方からアプローチしようという方法を取っているように思える。そして、「委員会では両方の観点を代表する主張が強く展開された。」といっているように、委員会の検討はこの二つの対立する観点それぞれについて検討を行い、結局は同じ結論つまり脱原発に行き着いたとしている。

うおっとかなり難しくなってきましたね。パスといいたいところですが、峰内謙一氏による完成版が次にありますので、これを印刷して読んでまた頑張ってみます。
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/mineuchi_genpatsu_2011_12.pdf
なお、倫理委員会報告書も、こちらに全訳がありますので、次回からはこちらを使わせていただきましょう。
http://www.jabes1993.org/kigyo_archive/EthicsCommission_full_translation.pdf
こういう経営者ばかりなら、日本も世界に誇れるのですが、どうも経営の中枢にいる人たちがなかなか頭を切り替えない。ムラの暴走を助長する。
しばし、この記事をトップに置いておきますが、明後日の朝には、再び論文拡散記事をトップに戻します。
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ドイツ「倫理員会」報告書-4.倫理的な見解の序文 [原発問題・ドイツ倫理委員会]

メルケル首相の新聞記事をツイッターからお借りします。
https://twitter.com/desler/status/530653007122165762

ドイツが原発止めるというと、かならず他国からの電気の融通を言ってくる人たちはいますが、日本が学ぶべきは、必要性の点と言うより、その哲学、倫理にあると言えます。

それでは今回は、ドイツ「倫理員会」報告書
http://morikazutoshi.com/wp/wp-content/uploads/Deutch-rinriiinnkaihoukoku-mishima.pdf

1. 倫理委員会勧告、エネルギー確保
2. 誘因と委託
3. 共同成果(報告書)
は省略されておりました。
委員会メンバーにキリスト教関係の代表がいるのが特徴的ですが、日本にはない機関で、審議会や有識者会議と言うのはたくさんあるのだけど、結局はご意見を参考にするだけのところが多いか、首相のやりたいことをやりやすいようにするための機関だったりします。

「4.倫理的な見解」の序文にあたるところからいきましょう。
核エネルギーの利用、その停止及び様々な形での選択エネルギー生産による代替エネルギーに関する決定は、社会の価値決定に根拠を持ち、それは技術的及び経済的な観点に優先されるものである。将来のエネルギー供給及び核エネルギー倫理的評価に必要な鍵となる概念は、資源や自然環境を保ちながらの持続性(Sustainability:サスナビリティ)と責任なのである。かかる持続性をモティーフにして、社会的な均衡及び経済的な効率と並行して、エコロギー的に調和させるという目的は、同時に未来に相応しい社会形成を達成する事でもある。

「資源や自然環境を保ちながらの持続性」が重要になるでしょう。日本でもこのくらいのことは言われてきたことだし、なぜ、福島の事故を機に考え方を変えることができなかったのか?結局 CO2に走り、原発を維持するのに非常に都合のいい温暖化問題が出てきた。よりクリーンほんとはとんでもなくダーティーな原発こそが温暖化問題を解決するのだと。「未来に相応しい社会形成」の点がいびつにゆがめられてきた。

環境破壊の進展は、エコロジー的責任への叫びをもたらしたが、それは原発事故が起きる以前から、また単にそうした災害に関連して起きたわけではない。
それは人間の自然との関わりあいの問題が重要であり、また社会と自然の関係である。キリスト教の伝統及び欧州の文化から、自然に対する人々の特別な責務が生じてくる。自然の為に人間のエコロジー上の責任は、環境を維持かつ保護し、自己目的の為に自然を破壊することなく、将来の生活条件を確保するための(核エネルギー利用》見込みとすることを目指している。次世代に対する責任は、それゆえにとりわけ、エネルギー供給及び長期的或いは無限のリスク並びにその負担及びそれに伴っての行為結果に関してのフェアーな配分にまで及ぶのである。

「人間の自然との関わりあいの問題が重要であり、また社会と自然の関係である。」これは、日本にも文化的に根付いてないわけではないのですが、ドイツの場合、キリスト教特にプロテスタントと文化的な背景があって意識の強さが違うのでしょう。
「フェアーな配分」日本に欠けているのは特にここらか。小泉さんや細川さんが原発即ゼロを言いだして、日本も捨てたもんじゃないとは思いつつも、首相の権力が経済界と結び付く、さらに軍事とのかかわりを強調する安倍のおぼっちゃまは、原発が生み出す「核」の部分が軍事に不可欠であり、経済成長のために原発を輸出する以上は、国内でも数か所は動かしておかないとかっこがつかないという単純な発想で再稼働を推進する。持たせてはいけないおもちゃを与えてしまったわけです。

以前のコメントでハイデガーの原子力への考え方をちらりと紹介しましたが、哲学者の國分功一郎さんがブログでとりあげておりました。
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11165513104.html
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11166156205.html

ドイツが生んだ20世紀最高の哲学者の存在が、この倫理委員会に影響を与えたかは定かではないのですが、元々ドイツのエリート層が持ち合わせている倫理観や哲学についてはハイデガーをはじめカント、ヘーゲルを普通に学ぶ中から、醸成されていっているのかもしれませんね。
なんとか國分さんのブログも読みこなして、合間合間に入れていくといたしましょう。
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ドイツ「倫理員会」報告書 [原発問題・ドイツ倫理委員会]

大飯判決の方にコメントでいこうと思いましたが、今回画期的なことに国富論まで判決に登場させたことです。
こちらから紹介します。
http://www.takajo-law.com/250/25010/
①国富論

「被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが,当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その議論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼働停止によって電力供給が停止し,これに伴って人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。

被告の主張においても,本件原発の稼働停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」

豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であるとする判決文を安倍内閣は心に刻まなければならない。


国富論は経済書ではありますが、これはもう哲学の次元でしょう。こういう法律的でないことを判決に入れることへの批判はあります。
さだまさしの曲を刑事事件の説諭で引用した裁判官もいますから、そんなことで批判するのもナンセンスでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%9F%E3%81%84_(%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%AE%E6%9B%B2)
原発の問題を、技術論でなく倫理の問題とて取り上げ、首相が原発を止める判断にしたのが次の倫理委員会報告です。
ドイツ「倫理員会」報告書
http://morikazutoshi.com/wp/wp-content/uploads/Deutch-rinriiinnkaihoukoku-mishima.pdf

こういう本も出ていたのですが
ドイツ脱原発倫理委員会報告: 社会共同によるエネルギーシフトの道すじ

全文ネットで手に入ったのでこちらを買って、報告書とともに呼んでおります。
ドイツは脱原発を選んだ (岩波ブックレット)

これまた長い引用で申し訳ありませんが、報告書の次の部分を紹介して、いつかまた、このドイツのケースを考えてみたいと思います。

絶対的拒否見解

フクシマ災害が明らかにしたことは、安全、リスク及び危険といった概念を熟考させ、内容的にも新たに規定しなければならないことであった。これまでのリスク概念、即ち確率予想値による事故の規模判定は、核エネルギー評価に対しては不十分であり、かつ組織的にも受け入れがたいリスクの相対化に導くものである。(Zum einen)確率とは、事故経過に関して想定出来得る範囲で、かつ設計上の限界の関連でのみ、意味ある計算が出来るのである。とりわけ大規模な事故が起きる可能性を持っている核エネルギーにとっては、これまで設定した限界を越え、かつフクシマによりもたらされた大災害及びその大事故経過を(可能な限りの安全対策を講じた後の)“残されたリスク”(Restrisiko)として、倫理的に済ますことは出来ないのである。フクシマでの原発大災害は、日本の様なハイテクの国でも、人々の災害対策や災害後の直後の非常事態にその限界があることを指し示している。かかる類の災害を限定的な結果にすることは、自然、食料生産、現場での人々並びにグロバール的な経済にとっても、全くか、或いはほとんど出来ないのである。

核エネルギーの絶対的拒否する立場は、大災害となる潜在性、未来の世代が背負う負担、放射能汚染による遺伝的疾患、それらを相対的なリスクと見なさないのである。かかる観点からは核大災害による損害は、物的勘定の枠内での潜在的考量から越えるものであり、即ち計画や想定も出来ない事故の展開結果に視点をおくのである。その根拠は、システマティックなのである。限定された事故、それは交通安全や建築安全の類の事故は、限定されたそれであるが、かかうる損害は、事実起きており、その対応策をそこから漸次学んでいくものであるが、原子力発電装置では、そうした学習過程は無いのである。最終的な大事故が考量の外に置かれている限り、安全という概念は、再度検査するという合理性を失っているのである。こうしたリスクは、実際に起きた事故による経験から導き出されたものではない。何故なら最も深刻なケース(worst case)の核大災害は、いまだ未知のものであり、状況を総括的な視点から見通すことが出来ないからである。かかる事故の結果は、地域・空間的にも、また時間的或いは社会的にも限定されないのである。結論的に言えば、かかる損害事故を起こさない為には、核技術をもはや利用してはならないという事が要求される。

絶対的な拒否評価の枠内でも、より熟考し得るものは当然にさらに綿密になされることは徹頭徹尾お行われ得よう。かかるより熟考し得るものの限界領域外では、倫理的責任においてその範疇で判断しなければならない。相対的リスク、それによる考察し得るリスク(その時々の(核エネルギー利用》見込みとリスク)と並行して、絶対的リスク、考察不可能なリスクが存在する。ありそうもないと考えられた事が、実際に起きた場合、即ち、それを誰も望んでいないこと、他の人々にそうした目に遭わせる事を求める良しとする権利は誰にも存在しないそうした事態が起きた事を意味する。
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