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KKK(かけかくしかいさん)総選挙ーヴェブレンの予言 ヒットラーのような人間の出現 [ヴェブレン]

マスコミが各社一斉に公示日後の調査で、与党圧勝を伝えるような情勢ですが、小選挙区の個別の情勢ではそれなりにせりあっており、まあ最後までどうなるかわかりません。
ただ希望の党が大きく失速し、立憲民主党が延びてきたが候補者数が足りず、与党優位を覆すところまでいきません。
まあ焦ってもしかたない。ただ加計問題を禊が終わったから選挙後の臨時国会で質問させないとか、そんな状態にさせないために、声は発し続けないといけないでしょう。
 カテゴリーはヴェブレンですが、選挙に絡んだテーマでいきます。
 「帝政ドイツと産業革命」(日本語訳はあるにはあるけど、有料論文だけでしたかね。)
英語版はこれです。
http://www.unilibrary.com/ebooks/Veblen,%20Thorstein%20-%20Imperial%20Germany%20and%20the%20Industrial%20Revolution.pdf

気分上、常軌を逸している人や、特殊の階級的因習の訓練を受け、特殊の階級的利害によって偏見を与えられている人は、容易に好戦的な事業の長所を認め、国家的憎悪の伝統を守ってゆくであろう。愛国主義、海賊行為及び特権階級は、共通の問題に集まる。
たまたまこのような性格の気分上の傾向を豊かに持っている人が、同時に、野蛮な誇大妄想狂の発作に好都合である状況におかれ、またかれの特異質を力づけるような無責任な権威や、大きな特権の地位に立たされるようなことがあると、かれの性癖は、容易に世間の人気を集め、流行のようになる。そして、それがある程度、持続し、巧みに操縦されると、それは、極めて広く受け入れられ、結局、一般人民を熱狂的な好戦的心理状態に陥れるであろう。そのようなことは、帝政的戦略を基準とする歴史的伝統を有し、また強制、特権、忠誠心などの線に沿ってつくられた日常の制度をもっているような国の場合に、特に起こりやすい。

小原敬士 ヴェブレン 勁草書房、1965 (思想学説全書) 153、154ページ

これは、アベにもかなり該当するところがあります。北朝鮮のあのぼっちゃんの状態がまさにこれにあたるでしょう。ヴェブレンは、ナチスドイツが台頭する18年も前に、ドイツにこのような人物が登場する。まさにヒットラーのことを見事に予言していたのです。

圧力をかけ、トランプに頼んで挑発させ、自分が勝手に解散した選挙を有利に進める。日本人がまともであれば、そのようなことはないだろうと希望的観測を持っていましたが、アベが選挙に絡んできて5回目の選挙でも、また同じ過ちを繰り返そうとしています。

なんとかせんといかんと思うのですが、この国の有権者は目覚めてくれそうにない。
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KKK(かけかくしかいさん)総選挙にあたってーヴェブレンの言葉を考える [ヴェブレン]

 6日の金曜日はICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆国日本として核の問題をこの総選挙の機会に国民こぞって考える必要性を与えられました。なのに政府はノーコメント。はやくこんな政府は退場させないといけません。
 平和のことを考えるにあたって、ちょうど今読んでいる都留重人さんの「現代経済学の群像」(岩波現代文庫)の中で、ヴェブレンのことがとりあげられていますので、ちょっと引用させていただきます。
 都留重人さんは、大分市出身でハーバード大学を卒業し、一橋大学学長を務めた方です。制度派経済学の研究にも造詣が深いので、ヴェブレンはよく取り上げていただいてますね。2006年に亡くなられました。宇沢先生も亡くなり、日本の制度学派はやや元気がなくなったかな、是非盛り返していただきたいものです。

岩波現代文庫の41ページ

 続いて1917年に『平和の性質』を書いたときには、彼は、恒久平和維持の立場から日本国がかかえたダイナミックスの危険を指摘した。彼はそこで、営利企業体制と結び付いた帝政的愛国主義が将来における最大の平和撹乱の要因であるだろうことを指摘し、したがって、そのような要素を典型的にそなえているドイツと日本は、依然として将来のマッチ箱と成る可能性がある

どこかのコメントで紹介したところと重複するかもしれませんが、ヴェブレンの予想は、第二次世界大戦で的中してしまいます。
 現在の日本では、資源、経済力で比較にならないでしょうが、アベを始め日本会議的ないきすぎた愛国心が経済界の経営トップの考え方にまで蔓延してきた時、同じ危険性がないとも言えません。小池都知事にも同じことがいえるのかもしれませんが、いくらか修正がきく可能性は残しているでしょう。ほとんど期待できませんが、「アベよりまし」で考えるか、企業が営利を追求するのが当たり前になっている現在にヴェブレンの考えを持ち出すことが時代錯誤なのか、私はそうは思えませんので、投票日まで熟慮して決めたいと考えています。
 まずは、アベを辞めさせる選挙と考えて、今回はこれも使わせていただきましょう。
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https://twitter.com/twitter/statuses/915856993830580224
間に動画を入れております。
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技術者ソビエト論とはなにか?-とりあえずとっかかり [ヴェブレン]

前回 剰余価値のところで取り上げた論文を再び使います。

制度学派-ヴェブレン研究の動向- 中山大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/5/5/5_5_6/_pdf


4. ヴェブレンの技術者革命論

のところで、4人の説を紹介しましょう。今回は半角空白を取り除いています。

松尾説

Veblenによれば,ロシアにおいて,労農同盟による革命が成功を収めたのは,地方分散的な自給自足的農村共同体の広範な存続と,資本主義発展の未熟さのゆえに,労農同盟が,生産力の担い手となりえたからである.しかるに,先進工業国アメリカの産業体制は,経済全体にわたって,包括的な,相互依存的な技術体系をなしており,その能率的運営には,物質諸科学にもとつく,技術的知識を不可欠としている.したがって,生産の技術的管理において,技術者が,支配的地位を占めるに至っている.それゆえ革命の成功が,生産力の持続的発展にかかっているとみなす限り,「アメリカその他の先進工業国における革命的顛覆の問題は,実際の問題としては,技術者のギルドがなにをするかという問題に帰着する.」「アメリカにおけるソヴィエトのようなものの機会は,技術者のソヴィエトの機会なのである.」ここに松尾氏は,Veblenの革命論を先進国型革命論と規定する

小原説

かかる松尾氏の見解に対して,小原氏は,Veblenの革命論が,「多分に社会主義的なムード」を持つものであることを認めながらも,革命の現実的可能性について,アメリカにおいて「変革を助長する状況がけっして多くないこと」,それゆえに技術者ソヴィエトは「遠い将来の出来事であること」を的確に見通していた点で,Veblenはすぐれた予言者であったという面を強調して,氏は,Veblenを「急進的な社会主義者と考えたり,不在所有者体制の急速な没落を期待した人とみることはおそらく誤まりであり」,Veblenの立揚は,「ある意味の技術的社会改良主義」であり,その限りにおいて,「Technocracyの先駆者」と考えられると,松尾氏と対立的な評価を下している.


松本説

他方,松本氏は,論文(8)において,Veblenにおいては,「企業家と技術者との関係は,雇用関係のみを通じて規定され」ており,資本対労働という資本主義的生産関係において把握されておらない.しかし「技術者にしても,資本主義的生産関係から切りはなされた存在は許されない.むしろ〔資本主義体制のもとで〕技術のもつ敵対性とともに,技術者も労働者に対する敵対性をつよめ,中産階級化するか,あるいは労働貴族化する傾向を強くひめていることが認識されるべきである」と述べ,Veblenも,「技術者を中産階級と規定」しているという.だとすれば中産階級たる技術者による革命は,「経済体制の変革でもなければ,私的所有関係の変革でもなく」,それは「資本主義体制を前提とした上で,企業家と技術者との交代にしかすぎない.」このように松本氏は,Veblenの革命論の「保守性」を強調し,W.Z.Fosterと同様に,Veblen思想をプチ・ブル的社会改良主義と把握しているように思われる.


中山説

中山は,論文(13),(14)において,Veblenの革命論と,経済学方法論,Marxism批判および資本主義論との関係を追求して,Veblen思想の体系性を指摘する.中山によれば,Marxism批判においてMarx型の階級闘争理論を否定したVeblenは,資本主義体制のもとでの階級対立を,基本的二元論にもとついて,「産業階級」と「企業階級」の対立としておさえる.両階級は,異質な職業的訓練を通じて,唯物主義的思考習慣と金銭的思考習慣という対立的な思考習慣を修得する.かかる思考習慣の形成が,Veblenの本能一習慣理論によれば,本能の発現形態を規定する.唯物主義的思考習慣は,産業階級をして,製作本能に動機づけられて,生産力の増進に努力せしめるのに対して,金銭的思考習慣は,企業階級をして,掠奪本能に動機づけられて,企業的サボタージによる利潤追求に専念せしめる.かくして生産力説的視角をとるVeblenにとって,独占資本主義の矛盾の克服は,当然,産業階級による企業階級の社会の支配的地位からの排除にかかわる.その際,職業的訓練によって唯物主義的思考習慣をもっとも強く修得するのは,産業階級の中でも,技術者階層である.ここにVeblenの革命論は,技術者革命論という形態をとるに至った.中山は,以上のように,Veblen思想の体系的把握を通じて,Marxismとの差異を浮彫にせんとしている.

 小原さんの本を最近読んでいるので、小原説といきたいのですが、じっくり読むと中山説がしっくりくるところです。あくまでも現段階ですが、今日から、小原訳の「技術者と価格体系」を読みますので、読後はちょっと変わってくるかも。

そこで中山氏による考察部分ですが

Veblenの革命論の評価および現代的意義は,技術者の理解にかかわっている.松尾氏のように,Veblenの技術者の「被雇用者」的性格を強調して,被雇用者階級の中で,「技術主義的」なVeblenが,技術者階層を変革主体として重視したとするか,中山のように,「職業的訓練の理論」にもとづいて,産業階級の中で技術者階層の社会変革におけるleadershipを認めようとするか,あるいは他方,小原氏の場合とは根拠は異なるが,当時の労働組合に対するVeblenの反対論を根拠に,技術者階層をProletariatと断絶して把握し,Veblenをただ技術的合理性を追求するTechnocracyの先駆者と解釈するか,いずれにしろVeblenの技術者の把握,および当時および今日のアメリカ経済に占める技術者の実在形態とその地位について,今後一層の検証が必要であるように思われる.

 1960年代は日本においても割りとヴェブレンは研究対象になっていたようで、活発に論文で議論がされていたようです。その後、宇沢先生なども取り上げてきたから、もっと活発化してたと思ったのですが、いつのまにか尻すぼみ。リーマンショックで再び注目され始めたのですが、マルクス、ケインズがメインで、ミンスキーにも抜かれてしまった感じです。
 でもいろいろと読んでいくと、ヴェブレンと言う人の底知れなさを痛感します。おそらくまた違う面が発見されるかもしれません。あくまでも進化経済学で、最終形態を技術者ソビエトには求めていなかったでしょう。というか、最終形態そのものが進化論からみれば存在しない。まあ地球がなくなってしまえば違いますが、人類が生きて行く限り、答えのないものでしょう。
 こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、ヴェブレンから見れば技術者ソビエトも中間形態だったといえるでしょう。どういうものを想定し、どういう行動をとったか、をまた折を見て書いてみたいと思います。
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ヴェブレンは剰余価値を否定した [ヴェブレン]

 こういうことを記事にすると統計学の勉強がまたおろそかになるのですが、ひっかかるところがあると集中できない。まあ頭の切り替え用に敢えて記事にしておきましょう。

 小原版ヴェブレン(勁草書房)のマルクス経済学批判の部分で、ヴェブレンがあの剰余価値説を否定したという部分がひっかかり、そうなると宇野派とも喧嘩になりゃせんかと心配になりましたが

制度学派-ヴェブレン研究の動向- 中山大
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/5/5/5_5_6/_pdf

ここでちょうど小原版ヴェブレン(勁草書房)が出た当時の中山大氏の分析があって興味深いです。

今回は、3、4ページの

2. ヴ ェブレンのマルクス主義批判
3. ヴェブレンの資本主義論

の中の剰余価値の部分を集中的に見てみます。

まず剰余価値の説明ですがつぎのところにいろいろ出てきます。

https://kotobank.jp/word/%E5%89%B0%E4%BD%99%E4%BE%A1%E5%80%A4-79950

一番短いのを引用しますと

デジタル大辞泉の解説

じょうよ‐かち【剰余価値】

資本の生産過程において、労働者の労働力の価値(賃金)を超えて生み出される価値のこと。これが資本家に搾取され、利潤・利子・地代などの源泉となる。マルクス経済学の基本概念。

 私もかって資本論の入門書をいろいろ見て、剰余価値のところはあれこれ読んだつもりでしたが、いちばんしっくりきたのは、木暮 太一さんの「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? (星海社新書)」の第2章のところですかねえ。
 それで、ヴェブレンが否定したことに違和感はあったのですが、ネットで検索して出てきた中山大氏の説明がありましたので取り上げることにしました。

中山説

Marxの 資本 主義批判体系の基礎理論をなす剰余価値論, 搾取理論 を否定し た結果, 後述 するよ うに, Veblenは, 資本 主義 を, Marxと は異 なった基準 生 産力説的観 点 に求 め る こ と に な る という. かか る意味におい て, Veblenの 自然権思想批判 は,Mafxism批 判 にお い て 無視 しがたい意義 を もってい る

松尾説

自然権思想批判 による搾取理論 の否定 は, 剰 余価値論の否定 とはな らない と批判 す る1). たしか に, Marxの 経済理論 において, Veblenも そのMarx理 解において認めてい るように, 剰 余価値 論は, 資本蓄積論を通 じて資本主義発展 を解 明す るとい う論理 の線 上において, 基礎理 論 をなす ものであ る. そ うだ とすれば, 上記 の ようなVeblenの 自然権思想批判 は, Marxism批 判 にお い て 二次的意義しか もたない.

なかなかここらは、自然権思想と言う哲学的な部分の議論になるだけに私なんかが口を出すとやけどしそうなのですが、中山氏が説明として用意した次の部分

American Marxistsが, Marxの経済理論を資本蓄積を基軸としてではなく, 剰余価値論→搾取理論→階級闘争論の線上において理解しVeblenが, アメリカの社会主義運動をそのような線上にあるものとしてとらえていたとする限り, Veblenの自然権思想批判にもとつく搾取理論の否定は, かれにとってみれば, Marxism批判において重大な地位を占めるものといわなければならない. 剰余価値論→資本蓄積論→産業予備軍の理論→窮乏化理論→階級闘争論もしくは剰余価値論→搾取理論→階級闘争論のいずれの道をも否定し去ったVeblenは, 資本主義批判をMarxとは異なった視角から行なうことになるというべきではなかろうか.

American Marxistsの代表格がポール・スウィージーで、アメリカでは珍しいマルクス経済学者です。
中山氏はスウィージーの言葉を引用し

「剰余価値論は, それが資本蓄積分析の始点をなすからではなくて,むしろそれは, 資本主義のもとでの労働者階級の搾取を『証明する』ものであると考えられたがゆえに, 社会主義経済学の基石とみなされた. ひいては, 搾取は, 経済的利害にもとつく行動を決定づける直接的理論と結びつけられて, 階級闘争を説明した. 価値論は, この点で脱落した」

これに対してヴェブレンは

「全労働収益権およびその原理と結びついたMarxの搾取理論は, 労働者階級の感情を刺激することを意図した闘争の叫び以外のものとしては, 背後に消え去った」

と批判しております。なかなか深く読みこまないと理解できませんが、日本のヴェブレン研究家としては神様的存在になる小原敬士氏の捉え方を後の方で紹介しています。

これに対して, 小原氏は, Veblenの資本主義論は,「産業資本を基軸とする剰余価値創出過程を基準としてではなく, むしろ企業資本の利潤獲得過程を基準として把握」するものであり, それは,「資本主義の本質を主として営利活動の中にもとめようとしたSombartやBrentanoの立揚に近い」とされる. そして「このような考え方は, もちろん資本主義体制の特殊近代的もしくは特殊西欧的な特質を見逃すものである」と批判しながらも,「しかしVeblenが, 生きた当時のアメリカの経済的現実は多分にそのような性質をもっていた. Veblen.はそれを鋭く洞察している. そこにかれの経済学の特色がある」と評価する. 小原氏のかかる見解は, Veblenの資本主義論を, 狭義に解しても資本主義一般の批判とみなすこととなり,「基本的二元論」にもとついて「産業」と「企業」の制度的矛盾を鋭く別扶したその理論のすぐれた独占資本主義批判としての性格を軽視することになるのではないだろうか.

 これは剰余価値批判と言うよりは、ヴェブレンの資本主義論としての小原説の紹介部分ですが、労働者を第一義に見たマルクスと、企業を第一義としてみたヴェブレンの相違ということになるのでしょうか。労働者と言うより製作者、職人として見た場合、企業にこき使われる者ではなく、産業を経営者と共に支える者。ただ営利企業は状況が変わってくるのですが、それでも搾取という概念はなく不在所有者、有閑階級、特権階級対それ以外の者 総じて庶民ということになるのでしょうか。
 小原版ヴェブレン(勁草書房)によると、イギリス的自然主義、新ヘーゲル主義、さらにダーウィニズムも持ち出して、ヴェブレンはマルクス主義を批判していますが、私にはちんぷんかんぷんですので、ここらに触れるのはまだまだ先のことになりそうです。
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CDSやCDOの原型がヴェブレンの時代にあった?のかも。 [ヴェブレン]

 ミンスキーの絡みもあって最近はリーマンショックのころのものを読んでおりますが、”ヴェブレン CDS”で検索引した結果見つかった論文の中に、注目すべきものがありましたので取り上げてみたいと思います。

インダストリーとビジネスにおける「対称性」と「非対称性」:
ヴェブレンの視座からの「デッド・プレジデント・ケース」についての考察
早稲田大学大学院商学研究科教授 杉浦 正和氏
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/31442/1/WBSWorkingPaper_2010_Sugiura3.pdf

 CDS,CDOなどあの頃にぎわした金融商品用語が沢山でてきますが、基本的に経済倫理のまちがいで、マルクス、ケインズ、シュムペンターなど持ち出していろいろと批判されたものでした。
 さすがにこの金融派生商品いわゆるデリバティブはあまりに現代的なので、このジャンルの批判にミンスキーなど比較的新しい学者の理論で批判されたものが多いです。
 杉浦教授は、ヴェブレンまで遡らせて分析しているのが特徴的です。

3ページ

この文章の中に、既にヴェブレンの「インダストリー」と「ビジネス」の二元論の本質が明確に提示されている。重要なことは、「インダストリー」は受動的「フレーム(枠)」であり、「ビジネス」が能動的「フォース(力)」であるという点である。そして、前者には「マテリアル」および「システム」という無機的な用語が連なるのに対して、後者には「アニメート」および「エンタープライズ」というより有機的な用語が連結されて、二元論の対比を浮き彫りにしている。勤勉さ(industrious)と語源を共有する「インダストリー(産業)」は、「ものづくり」に近く、ワークマンシップの本能(instinct of workmanship)の発露である。機械じかけのプロセス(machine process)がその大規模化を可能にした。それに対して、「ビジネス(営利/企業)」は、利益になるかどうかという金銭的(pecuniary)な動機から出発し、信用(credit)を上手く使いながら利潤目的で投資することを意味する。

ここらはいわゆる原理論ですが、産業と企業を分離して経済を考えるヴェブレンの独特な理論構成の説明です。

4ページ

ヴェブレンは 20 歳半ばから 30 歳台半ばを、アメリカにおいて「トラスト(企業合同)」が全盛期となり、独占資本の形成が進む「アメリカの資本主義にとってはまさに『疾風怒濤の時代』」(小原 1965)にあたる時期に過ごしている。トラストは、同業種に属する企業が買収・合併・持ち株会社設立などにより事実上ひとつの巨大企業として運営される形態であり、独占的利益を享受したii。ヴェブレンが「ビジネス」と呼んでいるのは、このような「較差利益(differential gain)」に結びつく「較差優位性」を追求する企業家たち(business men)である。

 このあたりは、ケインズあたりも言っているのか調べてはおりませんが、ケインズが一般理論を発表するかなり前のことなので、やはり先見的だったといえるでしょう。買収・合併・持ち株会社設立あたりは、まさにハゲタカファンドですが、あの時代に発想としてはすでにあったということですね。

15ページ

ヴェブレンの時代に行われていた「ビジネス」の収益最大化の方法は、大規模な合併によってマーケットを操作する独占的な力を得ることであった。いまひとつは、情報の非対称性を強めることである。その常道は情報収集と分析に努力することである。しかしその一方で、積極的に虚偽は言わないとしても、重要情報を隠匿するインセンティブは十分に働く。
「デッド・プレジデント」の争点は重要情報が開示されていたか隠匿されていたかになると考えられるが、情報開示責任を有する販売者(Times 誌はこれを“dirty job”と形容している(Time, 12 May 2010))は他の金融機関であり、競合でもある MS 内のトレーディング部署でどのような取引が行われていたかは関知し得ないとの立場も理論的には取りえるであろう。

 「情報の非対称性」というのは、スティグリッツさんがよく使う言葉ですが、ヴェブレンは無意識のうちに理論構築していたのでしょうか?ちょっとここらは読みこまないとなんともいえませんが。 

17ページに極めて重要なことが書かれています。

 価値を創りだす非対称的性格を持つ「インダストリー」が、価値を測りそれに投資する対称的「ビジネス」によって、純然と金銭的なものに転化し、対照的な売買・損得・勝負の対象として最後に「ロング」と「ショート」に煎じ詰められていく。「最後は株価に収斂される」のは、市場におけるキャピタライゼーションの過程を通してである。それは、ヴェブレンの晩年の業績である“Absentee Ownership(1923)”における考察に繋がっていった。企業の価値を「証券化(securitize)」することは、株式所有を通じてのオーナーシップである。証券化(securitization)は、一般的な意味では今まで市場化できなかったものを分割所有できるようにする方策である。証券化商品を通じての住宅ローンへの投資は、不在者所有を最も抽象度の高いレベルにまで持っていった金融商品であることを考えると、ヴェブレンの議論がいかに今日的であったかが理解される。

 不在所有制が出てきましたねえ。「技術者と価格体制」あたりからこの言葉をヴェブレンは頻繁に使うようになるのですが、語義としてはやや広めに使っているようですねえ。前半部分は油本氏の翻訳が公開されていますので、今頑張って読み始めていますが、難解です。
 杉浦教授の分析によれば、不在所有制が金融工学的な商品と関連が大いにありそうだということです。
 あの時代にデリバティブ?まさかと思いますが、数学的原理であるブラック・ショールズ式の大本は、なんと1900年です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E2%80%93%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F

「ファイナンス研究において先駆的な業績を残したことで知られるルイ・バシュリエは1900年に発表された博士論文[7]の中でオプションの評価式を考察していた。」

 まあアメリカのことですから、あくなき金もうけのために、最新鋭の科学を使っていても不思議ではない。ヴェブレンのことですから、そういう動きにくぎを刺すために、一足先に、使い方を誤るなと警告していたのかもしれませんねえ。

 杉浦教授は次のような関連論文を公開いただいてます。これらも頑張って読んで、また詳しいものを書きたいと思っておりますが、来月の後半でしょうね。

インダストリーとビジネスの二元論とサービスの社会性
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=13513&item_no=1&page_id=13&block_id=21

クレジット・デフォールト・スワップ(CDS)における「信用」の分離 : 信用保証の 5つのカテゴリー、 4つの「無化」、 3つのデカップリング
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12875&item_no=1&page_id=13&block_id=21

CDSにおけるバイヤー・セラーおよびシンセティックCDOにおける組成者・投資家のインセンティブ
https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12981&item_no=1&page_id=13&block_id=21

 うっかり引用した部分だけでアップしてしまったので、自分の言葉を合間合間に追加してみましたが、最初と最後の部分だけのコピペからなんぼか成長したかな。
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「進化経済学と宇野経済学の統合」という動きがある [ヴェブレン]

 最近 コメントで取り上げたミンスキーと宇野派経済学ですが、以前、ホジソンさんの関係で図書館の本を借りたりしたときに次の論文をダウンロードしていました。印刷もせず読んでもなかったのですが、気になって今回印刷しました。
 んが、難しいいいいい。まあでも記事に取り上げないとそのまま葬り去ってしまいそうだったので、最初と最後の部分だけ引用します。

進化経済学と宇野経済学の統合へ
https://cc.econ.hokudai.ac.jp/system/files/newsletter_2-8-3.pdf

北海道大学 西部忠氏

2ページ

序.はじめに:進化経済学と宇野経済学

 本稿では,進化経済学と宇野経済学の関係を考えたい。もう少し特定化すれば,進化経済学における「制度」や「進化」という視点や概念から,宇野経済学における経済学方法論としての三段階論と原理論・段階論の解釈を提示し,進化経済学と宇野経済学の異同を明らかにするとともに,両者の対話を可能にする概念的枠組みはいかなるものかを考えてみたい。

まあ研究の動機はそういうところのようです。

25ページ

 これまでの議論より,筆者の原理論と段階論に対する見解は明らかであると思う。まず,複製子(ルール)の制度・進化論的アプローチに基づく経済社会観に立つ必要がある。商品・貨幣・資本形式を資本主義のハードコア的複製子(ルール)と捉えるのは,他には見られないマルクス『資本論』に固有の視点である。そこに立ち返った上で,原理論をマルクス『資本論』の傾向・趨勢論,運動法則論,発生・分化過程論の三種類の理論(複製子)が混合する理論生態系として捉え直し,三種類の理論の混合こそが多様性を創発する源泉となることを明らかにすべきである。そのためには,宇野が原理論における純粋資本主義の外枠を規定するために想定した歴史的傾向・趨勢としての「純化傾向」を一旦その位置から外し,むしろそれを「市場の内部化」(「商品化」)に関する傾向・趨勢論として再構成して,理論の中に取り入れる必要がある4。その際,構造論アプローチや行動論アプローチにおける静的均衡や最適化といった見方はすべて退け,定型的な意思決定・調整原理を備えた現実的な経済主体の相互作用からボトムアップに資本主義の個体発生過程を記述するよう努める。それとともに,段階論に取って代わりうる中間理論を資本主義の系統発生論として展開するが,その主要な課題は,資本主義の原種から多くの亜種が分岐しながら多様化していくような,資本主義の系統樹を描くことであろう。このようにして,資本主義という種の進化を個体発生と系統発生の両面から理解するための経済学体系を再構成することができるのではないか。これが,進化経済学と宇野経済学の統合の可能性を探る方向である。

 結論部分になるとなんのことやらわけわからなくなるのですが、宇野理論とは、ただのマルクス経済学とはわけが違うというのはなんとなくわかる。
 昔買っていました佐藤優さんの「功利主義者の読書術」の中に二か所ほど宇野弘蔵さんの本が取り上げられています。元々この本を読む前に岩波文庫の「恐慌論」を買って、読んではいたのですが、これまた途中で投げ出してしたような状態。

 イデオロギーとしてのマルクス主義ではなく、純粋に資本主義を追求したマルクスの資本論の真髄を理論的に探究したのが宇野弘蔵という人物でした。

 ミンスキーを仲人としてヴェブレンとケインズを結婚させるのか?宇野弘蔵を仲人にしてヴェブレンとマルクスを結婚させるのか?どちらも興味深い動きでありますが、経済学派としてメジャーになっていただいて、国民一般にもわかりやすい議論をしていただけるとありがたい。

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ポスト・ケインジアン制度主義というのがあった。 [ヴェブレン]

ばたばたっともう一つヴェブレン関連のを記事にします。

「ポスト・ケインジアン制度主義」の可能性

帝京平成大学(非常勤)寺川隆一郎氏
http://www.jafee.org/conference/conference_files/RyuichiroTerakawa.pdf

ホジソン関係のサイトのようですね。

宇沢先生も出てきますが

ジョン・M・ケインズの経済学とアメリカの AI の親和性はしばしば指摘されてきた。たとえばケインズの系譜を継いだ一人である宇沢弘文は、その回顧インタビューで、ソースティン・ヴェブレンの『営利企業の理論』(Veblen 1904)を読んだ際に、ケインズの『一般理論』 (Keynes 1936) の核心 が 含 ま れ て い た こ と に 衝 撃 を 受 け た と 述 べ て い る(Okuno-Fujiwara and Shell 2009)。また、ケインズの高弟であるジョーン・ロビンソンも、ケンブリッジ資本論争の後にヴェブレンの J・B・クラーク批判(Veblen 1908)を読み、ヴェブレンの痛烈な J・B・クラーク論を人びとが覚えていれば、資本について論争する必要はなかっただろうということばを残している(Harcourt 2011: 263-4)。

PKがポスト・ケイジアン、AIが制度主義派ですね。

また 1983 年には、チャールズ・K・ウィルバーとケネス・P・ジェイムソンの手で、スタグフレーションという当時の経済問題に取り組むために、AI と PK の知見を統合する著作『経済学の貧困』が公刊された(Wilber and Jameson 1983)。この著作は、「 ポ スト ・ ケ イ ン ジ ア ン 制 度 主 義 (Post-Keynesian Institutionalism: PKI)」という名称を使用した最初期のものだ。

ケインズとヴェブレンの理論的な“結婚”という試みはけっこう前にあったということですね。

 リーマンショックの時に一躍注目されたミンスキーが、PK,AI統合の仲介役的な存在だったと言われてますね。

ミンスキーは、1996 年に、アメリカ進化経済学会で、進化経済学への貢献を讃えるヴェブレン-コモンズ賞を受賞している。その記念スピーチで、ケインズのコモンズ宛の 1927年 4 月 26 日付けの書簡(Keynes 1927a)の一節を引用している。「考え方一般が、これほどぴったり一致すると感じられる経済学者は、貴兄の他にいないようです」。そしてミンスキーはこの一節を、「ケインズ経済学とアメリカ制度派の親和性の証拠だ」(Minsky 1996: 357)としている。ただしこれには多少留保が必要だ。確かにこの一節は、ハロッドやスキデルスキーによるケインズの評伝でも、ケインズへのコモンズの影響を示す証拠として引用されてきた有名なものではある。しかしこの手紙の主題は、当時の FRB の金融政策についてのコモンズの分析だ。コモンズは、FRB が、当時発見されたばかりの公開市場操作をつかって、卸売物価安定化を目指すべきだと提言する論文(Commons 927)を公刊し、ケインズに意見を求めたのである。ちょうど『貨幣論』に向けて準備をしていたケインズは、この提言に賛意を示した上で、上記の有名な一節を書いたのだ。あくまでも通貨管理という限定された主題についての同意であることは留意しておくべきだろう。

 ちょっと難しくなってきましたが、ヴェブレンとケインズの直接的な対比ではないのですが、コモンズという熱烈なヴェブレン支持者との対比ですね。

ウィキペディアからですが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BA

ジョン・ロジャーズ・コモンズ(John Rogers Commons、1862年10月13日 - 1945年5月11日)は、アメリカの経済学者、労働史家。ヴェブレンと並ぶ制度派経済学の代表者の一人。
オハイオ州西部のホランズバーグ出身。シラキュース大学を経て、1904年からウィスコンシン大学マディソン校の教授を務めた。集団的民主主義による合理的価値の実現を希求した。

いきなり飛ばして論文の最後の部分

ケインズが『一般理論』を準備する中で、自らの新しい理論を「貨幣的生産理論(monetary theory of production)」として構想していたことは良く知られている。コモンズもまた自らの貨幣論を「取引貨幣論(transactional theory of money)」と呼び、企業の投資決定とフローの貨幣の創出・譲渡・消滅を相即的にとらえていた。両者のよく似た洞察が、どこで分岐し、政策的な違いとして現れるのか、PK と AI の対話は、今後はこの点をめぐって継続することが期待される。

前の龍渓の記事のコメントで気になっていたガルブレイスの”ケインズ主義の限界”を解く鍵をレギュラシオン派に求めなくても、なにやら解決できそうな気配ではあります。まあ、これも来年の課題ではありますが。
鬼が笑うかな。
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ヴェブレンがドイツと日本を危険視した理由の続き [ヴェブレン]

前回の続きを少々

J.B.クラークとヴェブレン 田中敏弘氏
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004999178/en
ここにアクセスして、次のところをクリックするとPDFファイルが読めます。
CiNii.png

前回と重複しますが、29ページ

<「所有権と、この権利が効果を現わす価格体制のもつ諸権利を現在排除し、究極的に廃棄すること、この線に沿った希望に満ちた端緒は、前の箇所で述べられたように、明らかに市民のすべての金銭的権利の中立化であろう。 他方、競争的利得と競争的支出をともなう体制を断念する犠牲を払ってまで平和が望まれないならば、平和促進者は当然しかるべき予防策を講じ、相互羨望という極めて不安定な均衡をもたらすような平和的解決、すなわち、金銭問題の不満がこの既成の金銭的特権体制を脅かすようになったときには、急遽転覆させられるような体制の方向にだけ動くであろう」(367)>

 価格体制、価格体系とも訳されますが、ヴェブレンが1917年に出した著書 AN INQUIRY INTO THE NATURE OF PEACE の7章に出てきます。こちらで原文が読めますが
http://www.gutenberg.org/files/20694/20694-h/20694-h.htm#CHAPTER_VII
けっこう長いので、Google翻訳を使っても、辞書を鍛えないとちょいと読めません。端的に言ってしまえば、「価格体系と営利原則の破棄が恒久平和の条件」であるとヴェブレンは主張します。前回の4つの条件から読みとるのはちょいと難しいのですが、1919年に出版される「技術者と価格体制」をじっくり読めば私でも意味がわかってくると思います。幸い翻訳本が県立図書館でも手に入ります。またの機会にチャレンジしてみましょう。

30ページでは、4 ヴェルサイユ条約とその後のところに、第一次大戦後の賠償問題を機に、ヴェブレンが積極的に戦争と平和に関する論説を書き続けたと書かれています。

<これらの論説でヴェブレンは、平和の条件、日本の現況、恒久平和に対する阻害条件としての先進国の植民地主義と不在所有制、国家主権と国境の陳腐化、反ボルシェヴィズムなど、広範囲にわたって論じた18)。
ヴェブレンにとっては、この条約によって成立したヴェルサイユ体制は、恒久平和をもたらすものではまったくなかった19)。彼によれば、「平和条約は、本質的にみて国際的嫉妬心の温存を特に意図して、もとの状態(statusquoaIlte)を再建しようと企図した。条約は、連盟と共に、世界平和の解決をもたらす代りに、その背後で列強の長老政治家たち(Elder Statcsman)が、政治的術策や帝国主義的拡大を追求し続ける、外交的饒舌の煙幕以上の何物でもないことを既に示したのであった」>

<ヴェブレンの結論は明らかだった。すなわち、「要するに、戦勝国の政治家たちは、現存する政治経済秩序をまもり-世界を投資家の民主主義にとって安全なところとするよう努力することで、ドイツの戦犯的な不在所有者に味方し、自国の下層民衆に敵対したのである」>

不在所有制の問題は以前ここに書いております。

宇沢先生の「ヴェブレン」に書かれた不在所有制
http://ryukei-rondan.blog.so-net.ne.jp/2015-10-13

「ヴェブレンの平和論をつきつめていくとこの不在所有制に突きあたるのですが、この点は以前、県立図書館で借りた「ヴェブレンとその時代」(稲上 毅  新曜社 )、けっこう分厚いのですけど5章の部分だけコピーしていましたので、またの機会に何か書いてみたいと思います。」

と書いておりますので、今回このコピーを再び手にすることになったのですが、これもけっこうなページ数がありますので、またの機会に先延ばし、と逃げる。

いつまでも逃げてばかりではいかんので1行だけ引用しますと
<第一次大戦は不在所有制をめぐる利害関係の対立から生じたものであり、パリ講和条約はこの経済制度の存続と安定化のために行われたものだからである。>「ヴェブレンとその時代」(稲上 毅  新曜社 )P539
一般になじみのない「不在所有制」ですが、理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。

 アベは原発の輸出はおろか、兵器の輸出やイスラエルとの共同開発などで、経済界を“武器商人”化していってます。経団連もいいかげんに目を覚ませよ。その儲けた金のウラでどれだけ多くのシリアの子供たちの命が奪われているかを。あまりにも不感症になっていないか。良心が痛まないのか。意見すら言うこともできない財界の大物たちにあいそがつきましたねえ。
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ヴェブレンがドイツと日本を危険視した理由 [ヴェブレン]

 前から気になっておりましたヴェブレンの平和論に関するいい論文が見つかりましたので、紹介しておきたいと思います。

J.B.クラークとヴェブレン 田中敏弘氏
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004999178/en
ここにアクセスして、次のところをクリックするとPDFファイルが読めます。
CiNii.png

 今回は、ヴェブレンが第一次世界大戦の段階で”予言”したドイツ及び日本の危険性、それはまさに次の第二次世界大戦の火種をドイツと日本がおこすということの予言であって、ドイツはともかく第一次大戦では戦勝国側にあった日本の体制の問題を見事に見抜いていた数少ない知識人であったことを物語っています。

25ページ

<「王朝国家」とは、封建的モデルに近い行動様式や思考習慣の支配する国家である。これに対して「近代国家」とは、機械過程と営利企業が封建的ないし略奪的思考習慣に抗して実質的に進展してきた国家と考えられている。彼によれば、ドイツと日本は王朝国家のモデルに最も近く、それに対して近代国家に最も近いのが英語を話す国民であった。王朝国家の構造的特質は、権威とそれに対する絶対的服従の習慣が極めて徹底して植えつけられて、服従は臣民にとって栄誉とされるほどである。王朝国家は略奪的であり軍国主義的であることが最大の特徴とされた。

28ページ

<『帝政ドイツと産業革命』での分析を受けて、ヴェブレンは、近代営利企業と帝政的名誉心や愛国主義との結合体制である「ドイツ帝国と日本帝国は、ことの性質上、結局、平和を撹乱する傾向をもつ」(79) とみている。なぜなら、「この両国とも支配を欲しがる傾向をもっている。そして彼らが狙っている支配は、戦争によるのでなければ手に入れることができない。この両国とも結局、手に負えないほど戦争企画に熱心になる」(82 )。したがってヴェブレンは、「明らかに、これら2 っの帝国が存在する限り、いかなる平和協定もすべて不安定なものとなるであろう」(83) と述べている。>

 『帝政ドイツと産業革命』が出版されたのは1915年です。同時期に日本に関する論文で「日本の機会」というのも書いているようです。日本に関しては”王朝”はずばり天皇制でしょう。当時帝国憲法まで分析していたかはわからないのですが、民主主義が未成熟であったことは認識していたようです。福沢諭吉とかのものを読めば違っていたのかもしれませんが、英訳されたものは少なくヴェブレンが目にすることもほとんどなかったでしょう。

<それでは、このような状況のもとで、恒久平和はいかにして達成されるであろうか。戦争の原因についてのヴェブレンの分析から出てくる彼の処方箋としては、恒久平和は、もし達成されるとすれば、王朝国家がもはや支配を求めず、近代国家においてナショナリズムと帝国主義が死滅するまでは達成されないということになる。恒久平和の必要条件として、ヴェブレンが具体的に提示したのは次の4 つとみなすことができよう。>

29ページ

①進行中の戦争がドイッの侵略と無条件降伏に終ること。
②戦勝国による民主的制度が樹立され、帝国支配のすべての特権と貴族主義的権力と権威が破壊されること。
③平和主義国家の連盟-そこには対等の条件をもった一員として認められた新しいドイツが入った-の形成。
④そしてこの連盟の内部では、諸国民の間の自由貿易体制、植民地の自治的共和国への転換、立憲王制と封建的政府の他のすべての残った威信の廃止と、ヴェブレンのいう「市民権の中立化」(“ neutralization  of  citizellship ” )(205 )-国の裁判権の境界内部に居住するか、あるいは活動するすべての人々は、その裁判権の法律のもとで、かれらの生れた国に関係なく、平等に扱われる政策を指す-が保たれねばならない(207 −8)

以上の4つが恒久平和の必要条件ということです。現在の国連加盟国が”平和主義国家”と言えず、むしろ常任理事国に平和主義国家が皆無である以上恒久平和は望めません。第一次世界大戦の時に、こういう具体的条件を求めていたヴェブレンの先進性に驚かされます。カントの永遠平和の影響を受けていたと言われていますが、さらに次のように「価格体制」という社会の経済的側面からも、「市民権の中立化」を実現するための制度構築につき提言がなされています。

<「所有権と、この権利が効果を現わす価格体制のもつ諸権利を現在排除し、究極的に廃棄すること、この線に沿った希望に満ちた端緒は、前の箇所で述べられたように、明らかに市民のすべての金銭的権利の中立化であろう。 他方、競争的利得と競争的支出をともなう体制を断念する犠牲を払ってまで平和が望まれないならば、平和促進者は当然しかるべき予防策を講じ、相互羨望という極めて不安定な均衡をもたらすような平和的解決、すなわち、金銭問題の不満がこの既成の金銭的特権体制を脅かすようになったときには、急遽転覆させられるような体制の方向にだけ動くであろう」(367)>

 ちょっと複雑なのですが、最後の「4  ヴェルサイユ条約とその後」の部分と共に、極めて重要なことが書かれていますので、丸山論文をいくつか読んだあとにまたご案内するとしましょう。共産主義かととれるようにもありますが、さにあらず、これが「制度主義」の真髄なのかもしれませんが、ちと凡人の私にはハードルが高いです。
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宇沢先生の「ヴェブレン」に書かれた不在所有制 [ヴェブレン]

 ルソーの記事のコメントで、ヴェブレンとの関係を調べていて出てきた「不在所有制」の問題ですけど、ちとつかみどころのない概念なのですが、持っていた宇沢弘文先生の「ヴェブレン」(岩波書店)でコンパクトにまとめていただいてました。
124ページ
 ヴェブレンは、『不在所有者制』で、近代産業社会においては、生産の諸条件と信用の利用にかんする制度が、不在所有者制によって支配されていると考え、その変貌的、理論的分析が必要となることを強調する。そして、近代的信用制度に依存した不在所有者制が究極的には、近代産業社会の停滞を惹き起こしていることを結論づけようとするものである。
 ヴェブレンは『帝政ドイツと産業革命』で展開された論法をそのまま、不在所有者制の分析に適用する。そして、不在所有者制のもとにおける近代産業社会では、不在所有者は、その掠奪的目的を達成するために、一般大衆の盲目的服従を、神学的 - 形而上学的な根拠にたって、強要する。不在所有者たちの金銭的利益の大きさがそのまま、国民の福祉に反映して現われるという、誤謬もはなはだしい論理がここで援用される。不在所有者制はまた、一般的な経済取引について、さまざまな制約をもうける。そして、このような取引制限から、一般大衆の犠牲のもとに発生する利得はすべて、不在所有者の既得権益に帰するとされている。不在所有者制はまた、愛国心の発現を、資本化の増大と混同させている。
 不在所有者制を廃止することによってはじめて、民主的共和国は、産業の生産手段、方法を共同に利用することができるようになり、すべての市民は、生活、自由、そして幸福の追求という基本的権利が充足されることになるであろう。
 昨日のコメントで出てきた
http://u-air.net/workshop/veblen/absentee-1-2.pdf
では、「(第1次)世界大戦は実に不在者的利害関係の抗争から勃発」とありますので、戦争にまで発展しかねないものをはらんでいるということなのですね。不在所有者と言うのは労せずして富を築く者と言い換えることができ、投資銀行などがこれを助長する。リーマンショックがまさにそうでしたが、第二次世界大戦の引き金ともなったウォール街の大暴落に始まった世界恐慌も、まさにこの不在所有制度が招いたものといっても過言ではないのでしょう。
 ヴェブレンの平和論をつきつめていくとこの不在所有制に突きあたるのですが、この点は以前、県立図書館で借りた「ヴェブレンとその時代」(稲上 毅  新曜社 )、けっこう分厚いのですけど5章の部分だけコピーしていましたので、またの機会に何か書いてみたいと思います。

 アベの考えも、まさにこの不在所有制を助長するようなやり方をしています。1パーセントの利益のために、戦争につながる防衛予算を拡大し、武器、原発を輸出する。中国、韓国を挑発する。アベノミクスの実態も、戦争経済路線がなかったら、国民の福祉に反映できるような立派な内容ではありません。まさに製作者本能に基づいた技術立国日本こそが、世界に誇れるものづくりであったはずです。アベは有閑階級ばかりを相手にしないで、庶民の声に耳を傾けよ!!
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